これからの健康経営に必要とされる、プレコンセプションケアを考える
「プレコンセプションケア」という言葉を聞いたことはありますか? 直訳すると「妊娠前からの健康管理」となりますが、対象となるのは女性だけではありません。若い男女が将来のライフプランを考えて日々の生活や健康に向き合うという概念であり、健康経営の実現にも欠かせない考え方であると注目されはじめています。
日本におけるプレコンセプションケアの第一人者、国立成育医療研究センターの荒田尚子さんと、健康経営研究会理事長の岡田邦夫さんの対談を通じてプレコンセプションケアと企業における健康経営との関係について考えていきたいと思います。
全ての若い世代の男女が対象となる、プレコンセプションケア
―プレコンセプションケアとは何なのか、まずそこから教えていただけますか?
荒田 プレ(Pre)は「前の」、コンセプション(Conception)は「妊娠・受胎」という意味です。つまり直訳すると「妊娠・受胎前のヘルスケア」になります。となると「妊娠直前の女性だけの話」に見えるかもしれませんが、そうではありません。
思春期から成人にかけての早い段階から、正しい健康知識を持ち、しっかりと健康を意識した行動をとることが、自身の今や将来の健康、そして健やかな妊娠や出産につながります。そのことは妊娠や結婚を考えていなくても同じく重要であり、壮年期や老年期にもつながるライフステージ全体に関わるヘルスケアと言えます。
では、プレコンセプションケアとは実際に何をすれば良いのか、ということですが、とくに重要な行動として、主に5つがあげられます。
①適正体重を保とう
②バランスの良い食事をとろう
③妊娠前から葉酸をとろう
④生活習慣を整えよう(アルコールを控える・禁煙など)
⑤かかりつけ産婦人科医をもとう(感染・基礎疾患のチェックなど)
またパートナーの、健康への理解や配慮が大切で、女性だけでなくパートナーやご家族も含めて一緒に取り組むことが重要です。もちろん、健やかな妊娠・受胎には男性の健康も不可欠です。
プレコンセプションケアは、現在・将来・さらに次世代の健康のために、老若男女すべての人に意識を高めていただきたい大切な考え方なのです。
―国の政策にも明記されていると伺いました。
荒田 2018年に成育基本法が制定され、2021年にその基本方針が策定されました。この基本方針には「プレコンセプションケアの推進」が明記され、これが日本の公文書にプレコンセプションケアの言葉が初めて記載された機会となりました。
また2023年に内閣府が掲げた「こども未来戦略方針」やこども家庭庁が策定した「こども大綱」でも「プレコンセプションケア」について触れられ、「男女ともに性や妊娠に関する正しい知識を身に付け、健康管理を行うよう促すこと」との説明が入りました。
―今、プレコンセプションケアが注目されている理由はどこにあるのでしょう?
荒田 欧米と比べて特徴的な理由が、大きく3つ考えられます。
1つは「深刻な少子化と人生100年時代」。国内の出生数はこの10年で22%も減っています。健やかな妊娠、出産を実現することは私たちの今と未来にとってはとても大切なことで、プレコンセプションケアが重視される根底にあるものです。
また、人生100年時代といわれる昨今、若いうちからの健康管理が、生涯にわたる豊かな人生に大きな影響をあたえることも注目される一つの理由です。
2つ目は「リスクある妊娠の増加」です。リスクある妊娠として、若い女性のやせと肥満が問題視されています。とくに1990年代から顕著にやせ型の女性が増えており、日本における成人女性の10人に1人、20代女性では5人に1人がやせという状況が、20年以上続いているのです。それに関連して赤ちゃんが2,500g未満で生まれる低出生体重児の割合がOECD諸国の中でトップクラスに高い状態が続いています。やせにしても肥満にしても、栄養不良の現れであり、リスクの高い出産にもつながりやすいのです。
また、葉酸の摂取不足についても同様にリスクある妊娠として注目されています。
―3つ目の理由は?
荒田 日本人全般が「性や妊娠、生殖に関するヘルスリテラシーが非常に低い」ことです。
欧米では家庭や学校を通して、妊娠を含めた生殖に関する知識がオープンに語られ、学ぶ機会が多い。ところが、日本では家庭はもちろん、学校においても、性や妊娠に対する知識を学ぶ機会が極めて少ないのが現状です。
―日本人は妊娠・受胎に関するヘルスリテラシーが他国と比べて低いわけですね?
荒田 はい。わかりやすいのが「葉酸の摂取」に関する知識不足です。
ビタミンB9とも呼ばれる葉酸が不足すると、生まれてくる胎児の神経管閉塞障害の発症リスクが高まる、というエビデンスがあります。葉酸はなかなか普通の食事だけで摂取するのが難しいため、妊娠前から妊娠初期は食事からの摂取に加えてサプリメントとして摂取することが推奨されています。
日本では、妊娠してから葉酸を摂取しはじめる方は多いものの、実は妊娠前から摂る必要性があり、欧米では一般的になっています。ところが、10万人を対象にした出生コホート調査では、妊娠前から葉酸を摂っていた方は、8.3%しかいないのです。妊娠に至る前からの教育の必要性がよく理解できる事例だと思います。
企業とプレコンセプションケアの関係について
―企業経営とプレコンセプションケアの関係性について、岡田先生はどのようにお考えですか?
岡田 プレコンセプションケアを企業が取り入れる必要がでてきた理由は、まず第一に女性の就業率が高まったことに尽きます。
かつては女性の年代別に見た労働力率は「M字カーブ」と呼ばれ、結婚や妊娠の機会が多い25~34歳くらいが極端に減り、育児が落ち着いてからまたパートなどで働き始める方が多かった。しかし、今は産休、育休を挟んで、同じ職場で働き続ける女性が増えました。
裏を返せば、少子高齢化が進み、企業経営において人的資本が極めて大切になったということ。生産人口が大幅に減少し、企業は性別を問わず、優秀な人材にできるだけ長い間、ポテンシャルを十分発揮してもらう必要があります。
しかし「妊娠したから辞めざるを得ない」「子供を生み、育てる環境ではない」と判断される会社に、いい人材は集まりません。
―健康経営とも重なりますね。
岡田 まさにそうです。健康経営という意味合いでは、プレゼンティーズム(社員の健康問題によるパフォーマンスの低下)にもプレコンセプションケアは大きく関与します。
たとえば、プレコンセプションケアにも含まれる月経前に体が不調になるPMSや月経痛などは、そのままプレゼンティーズムにつながりやすいですよね。
これは、男女問わず周囲がしっかりと理解しておかなければケアできません。つまり健康経営を標榜する企業ならば、こうした女性の生涯健康管理も理解し、ヘルスリテラシーを向上させておく必要があります。
荒田 おっしゃるとおりですね。また経営者の方は、プレコンセプションケアに基づいたキャリアパスが踏めるような制度設計の整備も大切かなと思います。
―どういうことでしょうか?
荒田 一般的に多くの企業では20代終盤くらいから組織のリーダー的な役割を担い始めます。ところが、その年代は生物学的な妊娠適齢期にもあたる。その頃に仕事を頑張りすぎて、結婚や妊娠などを遅らせる状況も多く見受けられます。
こうしたキャリアパスが高齢出産を誘引している面があります。ところが、キャリアが落ち着いた40歳前後になると、どうしても妊娠はしづらくなります。
不妊治療はありますが、肉体的にも経済的にも負担は高い。早産のリスクも高まるし、それは染色体異常の赤ちゃんが生まれるリスクにも直結します。そうした場合の子育てのご苦労は、並大抵ではありません。
―育児のご苦労が、深刻かつ長期のプレゼンティーズムにもつながりそうですね。
荒田 加えて低出生体重児や早産時などは医療経済的な負担が大きくなることもあります。日本は健康保険制度によって企業がかなり負担しますからね。
岡田 そのためにも、若いうちからしっかりとプレコンセプションケアを理解し、妊娠や受胎のヘルスリテラシーを高めてもらう必要があります。
同時に、企業では給与面でも制度面でも、あるいはキャリアパスにおいても多面的なサポートが重要になってきます。
―そうした状況は経営陣含めて、周囲の理解が高くなければ実現できません。その意味でも、プレコンセプションケアは女性だけでも、若い人だけでもなく、すべての人を包括すべき概念なのでしょうね。
岡田 そう思います。以前、40歳を直前にした女性のビジネスパーソンが、高ストレスとの判断を受けて、私が面接を担当したことがあったんですね。
彼女は役職者で、大変に忙しかった。しかし、出産を希望していました。主治医に相談すると「年齢的に最後のチャンスだから、徹底して取り組むことを薦める。残業などせず、なるべく仕事を減らして妊活にあたったほうがいい」と言われたそうなんです。
そんな彼女が「高ストレス」で私のところにきました。なぜなら、「私の口からは会社には言えない」と悩んでいたからです。結局、私から会社側に申し伝えて、会社側も納得。残業も休日出勤もさせず、彼女の妊活をサポートすると約束して、実践してくれました。
結果として、実は妊活はうまくいかなかったんですね。ただ会社に対する彼女のロイヤルティはその後、とても高まりました。
―サポートしてくれた事実があったからですね。
岡田 そうなんです。もし会社が「いや、君には残業してほしい」「忙しいので申し訳ないが」と答えていたら。そのうえで妊活が失敗していたら、彼女の反応は正反対だったと思います。
企業価値は社会が判断するよりも、従業員が自分の会社をどう思うかが非常に大切なのです。
―なるほど、プレコンセプションケアの推進は、企業価値にも影響するということですね。
では、企業がプレコンセプションケアを取り入れるとしたら、まず何からしていくべきでしょうか?
岡田 経営陣を含めた社内にプレコンセプションケアの知識を啓発するところからでしょうね。そのうえで、福利厚生として妊娠や妊活に関する啓発や支援もいいでしょう。また食育も効果的だと考えます。
―それはなぜですか?
岡田 食生活について正しい知識を持つことは、やせや肥満の抑制になりますからね。
従業員を大切にする企業、人的資本経営に力を入れる企業こそ社員食堂を充実させています。バランスのとれた無料の社員食堂を用意しているIT企業などはとても多いですよね。また朝食を社員に無料で提供する企業もあります。
朝食は効果的だと思います。特に若い人は朝食を抜く人が少なくない。しかし朝食をしっかり摂ることは脳を活性化させ、労働生産性を上げられます。また朝食をオフィスで提供すれば、出社時間も早まり、帰宅時間も早くなることもありそうです。
荒田 おっしゃるとおり朝食はやせや肥満に関わりますし、その他多くの健康課題につながりますので、プレコンセプションケアに関わる健康ケアの第一歩として考えていただけると良いかもしれません。
―シンプルなことから取り組めるという意味でも良いですね。様々な方法で取り組みが進み、従業員が健康になり生活が充実すると良いですね。
岡田 そう。方法は工夫次第でたくさんあります。経営者の方々がそれぞれの企業で最適な形を戦略的に考えていただく。それは健康経営と直結し、企業価値を上げることになるのだと意識していただきたいですね。
荒田 合わせて「プレコン(プレコンセプションケア)」という言葉を、まず当たり前のように使うようになってほしいですね。耳慣れなかった「メタボ(メタボリックシンドローム)」が浸透したように、言葉が使われ始めると浸透が進みます。
健康経営の調査項目に組み込まれたり、優良法人認定要件で使われるようになったりしたら、すぐに浸透するのではないでしょうか。
岡田 去年は花粉症と眼精疲労が入りましたからね。プレコンセプションケアも、それらと同等、あるいはそれ以上に大切な考え方なので、期待したいですね。
【プロフィール】
特定非営利活動法人健康経営研究会
理事長
岡田邦夫(おかだ・くにお)先生
大阪市立大学大(現大阪公立大学)学院医学部研究科修了。大阪ガス統括産業医、大阪市立大学医学部臨床教授等を歴任。現在、経済産業省健康・医療新産業協議会健康投資WG委員、健康長寿産業連合会理事、大阪府医師会健康スポーツ医学委員会委員長、女子栄養大学大学院客員教授などを務める。著書に「『健康経営』推進ガイドブック」(経団連出版)などがある。
国立成育医療研究センター周産期・母性診療センター母性内科
診療部長
荒田尚子(あらた・なおこ)先生
広島大学医学部卒業後、慶應義塾大学医学部内科研修医を経て内科学・腎臓内分泌代謝科助手。横浜市立市民病院内科(糖尿病内科)医長、米国マウントサイナイ医科大学内分泌糖尿病骨疾患科留学を経て、2004年より国立成育医療研究センターに勤務。2010年より現職。2015年に日本初の「プレコンセプションケアセンター」を国立成育医療研究センター内に設立。次世代を担う健全な子どもの出生と成長も考慮した“女性医療”を内科の立場から提供している。